親会社の社長に誘われ、麻布台の東京アメリカンクラブというところで藤枝純教さんを囲む会のようなものに参加してきました。
すごい人なんですね。大川さんの右腕だったとか。また知らずにただのおじさんだと思って挨拶する悪い癖が・・・藤枝さんの教え子で起業した人々とかいろいろ集っていて、結構内輪のパーティみたいでしたが、いろいろ面白い方に挨拶できて楽しかったかな。
http://www.re-gis.com/aboutregis/regis-j.html
以下、@typeの記事から抜粋ですが、本当にすごい人だとわかります。エンジニアでスタートして転職でキャリアを磨き、経営の上り詰めた人ですね。
“高度成長時代のSE日本代表”インタビュー
「20代で本物を知ることで30代で本物を作り出す」
1961年に日本IBMに入社した藤枝純教氏の20代~30代は、84年5月にCSKへ転身するまでの20年あまり。入社後1年半に及ぶ研修プログラム修了と同時に顧客を担当し、以後一貫してSE、プロマネの“本流”を歩み続けた歴史だ。
「入社後3年経った27歳のときにはSEマネジャーとして革新的な列車補修システムや新聞製作システムの初期開発、OSへの改変を手がけるなど、システム開発とプログラミングの最前線にいました」
京都大学文学部出身。哲学や心理学を研鑽していた経歴が意外にも"問題解決型"エンジニアとしての核づくりに役立ったと明かす。
「1つの分野に徹底し、本物を身に付けることで自分の中に基準ができる。そうすれば、15分くらい話を聞くだけで『ん? なんかヘンだぞ』とポイントをつかめるようになる。データをどう読むかではなく、感じることができるようになるんです。これが、35歳以降にも伸びる糧になる。ただ、雑誌やテレビはほとんど見なかったので、流行を知らないのが当時の弱点でしたね」
28歳で営業課長に転進、営業所長まで上りつめた1年半後の68年6月にはシステム開発部長に。超大型先端プロジェクトマネジメントを成功させ71年に全社のコンプレックスシステム事業部長へと昇進する。 「27歳くらいまでは、間違ったものを作らないように心掛け、それ以降は『いかに独創的に美しく作り、カットオーバーを成功させるか』をモットーにしていました。そのために現場の実態を知る工夫を重ねました」
システム開発部長以降は米IBMと直接交渉する立場で、大手航空会社プロジェクト、新聞や放送システムのプロジェクト管理、金融機関コンサルテーションの統括などキャリアの幅を広げ、質を高めていく。35歳時には18業種をマネージ、42歳で全業種や全機種担当の本社システムや営業企画のトップに立った。 「35歳レベルではマネジメントできないとだめ。原理原則に適っているかを瞬時に見抜き、高い目標に向けてまず自分の管理能力をトレーニングする姿勢が必須です。私のIBM時代は時代の要請の中、日本を代表するプロジェクトを手がけてきたと自負しています」
84年5月のCSKへの転身以降は関連会社社長をはじめ13社の役員を兼任するなど、マネジメント力を大いに発揮。現在、IT、ネットワーク、起業、教育へと縦横無尽にビジネスを展開する藤枝氏は、自分のアニュアルレポートを毎年書き続けている。 「もう40年になりますね。今年の自分は何をしたか、どう成長したかを公表する。前の年より経験値・質が低いと恥ずかしいでしょう。これは自分を進化させるためのドライバ。オススメですよ」
藤枝純教略歴
1961年3月 京都大学文学部卒業
1961年4月 日本IBMにシステムエンジニアとして入社、
営業所長、システム開発部長、
本社マーケティング統括、
システム開発 (株)専務取締役を歴任
1984年5月 (株)CSK専務取締役
CSKインターナショナル社長、
マイクロノーシス副会長
日本ウェーブフロント社長
セガ等関連会社役員を歴任
1995年4月 ジュニアサミット事務局長就任
1996年4月 グローバル情報社会研究所株式会社 創立
1997年4月 中央大学大学院総合政策研究科 客員教授就任 (2002年3月まで)
1998年1月 オープン・グループ 日本代表・会長に就任
2000年1月 CRM推進委員会 会長就任
2000年6月 CRM協議会 理事長就任
2003年4月 信州大学 大学院 教授 就任
2003年4月 京都大学 学術情報メディアセンター 講師 就任
2004年4月 東京電機大学 大学院 講師 就任
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