今回は、ブログのホットな話題がわかる「kizasi.jp」を運営する、株式会社きざしカンパニーの代表取締役専務を務める稲垣陽一さんにお話しを伺いました。
稲垣 陽一 氏
- 株式会社きざしカンパニー 代表取締役専務
- 東京大学卒(41歳)東証一部上場のSI企業シーエーシーにて96年から2年間スタンフォード 大学の客員研究員となり、ナレッジベースシステムや情報共有システムの研究開発を経て、 2002年から次世代型の検索エンジンの研究開発に取り組まれ、ブログのホットな話題がわかる「kizasi.jp」のコアエンジンとなる『kizasiサーチエンジン(時系列共起パターン解析エンジン)』を開発。2007年より株式会社きざしカンパニー 代表取締役専務就任。
おそらく当時はまだパソコンという時代ではなかったと思うので、コンピュータとの出会いをお聞きしてもよいでしょうか。
そうですね。僕が実際にコンピュータに触れたのは高校の2年ですね。理数科だったんですけど、理数系の教育の中にコンピュータ講座があって、パンチカードでプログラムを組んでセンターに流して、ちょっと待ってみたいな(笑)そういう世界が最初でしたね。
その方向に進まれたのはお子さんの頃に何か興味があったからですか? 機械いじりが好きだったとか?
機械いじりというか、SFファンというかそういうところですよね。どちらかというと理数系の人間だなとは思ってはいました。宇宙戦艦ヤマトとかその頃は色々ありましたからね(笑)
そうですね。色々ありましたよね。じゃあ、お子さんの頃から方向性的に自分は理数系だなというのはあったんですね。
そうですね。理数系が好きでした。
高校に進学されて初めてコンピュータに触られた時はどうでした?
あまりいい印象はないですね。パンチカードでしたし、面倒くさいなって思いましたね。
高校の頃は授業でってことですよね? 自宅では何かそういうことはなかったのですか?
何もなかったですね。
ゲームがお好きとかそういうのはなかったんですか?
ゲームは好きですけど、高校の時はあまりやってなかったですね。大学入ってからですね。
大学は理系から文系に移られたってことになると思うんですけど、心境の変化とか何かあったのですか?
なんか、文系も好きだったんですよ(笑)なんとなくロジックですべて割り切られるのも何だな、みたいなのがあって・・・。あと、周りが理系だと逆にそういうものに憧れるみたいなのがあるじゃないですか。なので、どういうわけか理数系の中で一人二人が文系に行ったという感じですね。
私も同じ様な感覚でしたね。数学者になりたいと思ってかなり数学をやっていたんですけど、この世界だけで生きていて良いのだろうかとか、人と関わりを持った方が良いんじゃないかとか急に思い立って文系にしたんですよ。だからその気持ちよくわかります。それで、入られたのは東大の文でしたよね?
そうですね。文ですね。
専攻は言語学ですか?
そうです。言語学です。実はその辺は中途半端で、文系に行きながらやっぱりどこか理数系的なロジックが入るところがやりたくなったんですね(笑)
なるほど(笑)
なんとなく言葉というものに神秘的なものを感じていたというのもあるかもしれませんけど。
それも非常に親近感が湧きますね。私も文法が大好きだったんですよ。
そうなんですか。
大学の中でコンピュータとの関わりっていうのはどうだったんでしょう?
文系にいると逆に今度は理系的なことに興味が出てくるとかってあるじゃないですか。だから言語学の勉強をするにしても、コンピュータを使って何か出来ないか、みたいなところに興味があったんですよね。結局認知心理学的な言葉の理解みたいなところをやりたいなっていうのがあって、そういうところの研究者になろうかなって思ったんです。
なるほど。
年を越して正月が終わってから大学院の試験があるんですけど、まさに「このままでいいのか」「このまま一生過ごしてしまって良いのだろうか」「もっと世の中にインパクトを与えるような仕事をしたい」と思ってここの会社(シーエーシー)に電話をかけたら、明日来なさいみたいな感じで呼ばれて面接を受けたんですよ。
そうだったんですか(笑)
この会社は、こんな季節はずれな時に来る学生にもきちんと対応してくれて、それで採用になったんです。結局理系から文系に行って、就職したのはコンピュータの会社でまた戻ってきたみたいな感じですね。
桜子さんのブログの記事に、入社したのは学校の近くにあったみたいなことと、直前でも会ってくれたことがきっかけだったということが書いてありましたね。
そうですね。実は、大学に就職相談所みたいなところがありまして、企業パンフレットが積んであったんですが、たまたまシーエーシーのパンフレットが一番上に置いてあっただけというオチもあります。運がいいともいうんでしょうかね。
なるほど。一番上に置いておくものですね(笑) でも、そうはいってもコンピュータの方面に行こうというのは元々頭にあったんですよね。
そうですね。コンピュータってその時代やっぱり特別な存在で、オーラを放っていたのでそこに関わりたいという思いはありましたね。
実際会社に入られてどうだったんですか?
実際の配属はSEみたいな形だったんですけど、僕にはちょっと向いてないなと(笑)
そうだったんですか(笑)
どちらかというと一つのことに没頭したいタイプなので、そのことを上司に言ったら技術研究の部署に異動になったんですよ。
じゃあ、最初のうちは常駐でお客さん先に行ったりとかもされたんですか?
そうですね。大きな銀行さんのシステムをやらせていただいたりもしました。
決まった画面で決まったフレームワークを使ってガチガチやるという感じですね。
そうですね。プログラミングはもちろん好きなので、そこで色々なツールを作ったりはしてましたね。
プログラミングは何処で覚えられたんですか?
一番最初にやったのはパンチカードですけど、いわゆるちゃんとした言語っていうのは大学の授業で勉強しましたけどね。
Cとかですか?
授業はパスカルとかですね。
始めてどれくらい経ってから、自分には向いてないという話を上司にされたんですか?
3ヵ月くらいですかね。
(笑)よく異動のOKが出ましたね。
ですよね。当時はまだ上場前の会社ですし、覚悟を持ってこういうことがしたいんだって言えば聞いてくれるっていうところがありましたね。
なるほど。何人くらい新卒の方はいらしたんですか?
僕らの年は45人前後だったと思います。
40人くらいだと、普通個人の要望なんて聞いていられないっていう世界かもしれないんですけどね。
たまたま運が良かったんでしょうね。たまたま上司が聞き入れてくれただけかもしれません。
それで技術研究に移ってからはどうだったんですか。
4月に入社して異動したのが12月くらいでした。最初にそこでやったのは、AIの保守支援システム「プラズマ」と言うんですけど、COBOLの大規模システムを、Prologっていう論理型のプログラミング言語で解析して、そのプログラム間の関係とかデータの受け渡しとか、例えばここに変更を入れるとどういう影響が出るかっていうのを分析するシステムでした。
巨大なソフトの中から影響範囲を見つけるっていうのは、当時は画期的な話なわけですよね。
そうですね。プラズマっていう製品をツール化して一応製品化までしたんですけど、それは国際AI学会の最優秀製品賞みたいなのを一応もらったりして、そういう意味ではオリジナリティがあっていいものだったなと思いますね。
それはどれくらいの期間をかけて作ったんですか?
僕が入ったときにはもう第1次開発が終わった段階だったんですけども、その前から2年間くらい続いていた開発でしたね。
なるほど。本社で実用化されていたんですか?
そうですね。実際の銀行の保守支援プロジェクトとかに使われていたのと、2000年問題でしたっけ?2桁じゃなくて4桁にならなきゃいけないみたいなところの解析に使われていましたね。
当時金融中心の大規模な開発っていうとですね、僕の記憶だと結構人が足りなくて大変な状況だったと思ってるんですけど、そういうものに巻きこまれてはいなかったんですか。多重構造と言うのでしょうか、下手すると6次請け7次請けが当たり前で、歪んでる部分のしわ寄せがどうしても下請け企業にいく業界構造ですよね。
そういう意味ではシーエーシーという会社自体が独立系のSIなので中立で1次請けしかやらないというのをポリシーとしていたので、そういうところで歪みとかっていうのはあまり感じることはなかったですね。
すばらしいですね。基本的にはプロパーメインでやられるっていう感じですかね?
そうですね。もちろん協力していただくパートナー企業のエンジニアさんもたくさんいらっしゃいましたけど、プロパーが中心でした。
稲垣さんは、今でもコードをご自身でお書きになっているんですか?
そうですね。昔、ジャーナリストの人と話した時に「自分は書きながら考えます」っておっしゃってたんですよ。なので、自分はプログラミングをしないと考えられないっていう感じではありますよね。例えばこういうデータがあった時にそこを切り出して色々やりますよね。その時にもちろん自動化して切り出すんですけど、あんまり素直にやってしまうと、それって応用が利かないっていうか新しい見方が出来なくなるんですよ。だから自分でちゃんとプログラムを書いて切り出してみたいなことをやると、データの骨格というか筋肉というものを何となく体感出来て、そうすると、あれとあれを組み合わせるとこんなことが出来るじゃん!っていうのがわかってくるっていうのがあるんですよ。
クリエイティブな発想が出来るっていうことですね。
そうですね。そういう意味でも出来るだけ自分で、少なくともプロトタイプの段階では作るようにはしてますね。
未だにやられてるっていうのは凄いですね。
すごいのか、みんな迷惑してるのかはわからないですけど(笑)
その次はどんな研究を展開されたのですか?
その後はオブジェクト指向っていうのが大きなテーマになっていて、COBOL大規模システムをオブジェクト指向的に解析するっていうことをやっていました。その後、世の中的にはMicrosoftのWindowsが出てきたっていう状況の中で、新しいプロジェクトで情報共有の研究開発みたいなのが始まって、そちらの方に2年間くらいいたと思いますね。
ドキュメントデータベースですね。
そうですね。色々な検索が出来るドキュメントデータベースみたいなものを研究開発でやっていました。でもそう言いつつ、営業の中で予測としてはインターネットがもっと普及するんじゃないかという予測があって、ちょうど一般の人が使うんじゃないかっていうのがその頃で、当時の研究のヘッドからちょっとスタンフォードに行って来いと言われたんです。インターネットが今後どういう方向で動いていくのか見てきなさいということで、客員研究員として96年から2年間スタンフォードに留学したんです。
これはビジネスというよりスクールという感覚で行ったんですか?ある意味業務をいったんストップしてというか・・・。
海外にシーエーシーから研究員を派遣したっていう最初の例だったんですよ。何もない状態で「5年後くらいに大きいことしてよ」っていうことを言われました。インターネット上のビジネスシステムをどうなると変わるかっていうのを見て来いっていう話なんですけども、自分のやるべき事とか、帰ってきてすぐ何かをするっていうことよりも、大きなことを将来やってくれということを仰せつかったという感じでした。
良い会社さんですね。
いや、すごい迷惑な話ですよ(笑) まだタスクがあったほうが楽ですからね。
その2年間にどんなことを身に付けられたんですか?
その当時はSGMLに凄い興味があって、今だったらXMLだったりですけど、まだ出来る前の時代なので、SGMLを使って情報共有のシステムを作ってまして、それをSGMLフォーマットでもっと賢く出来ないかとかっていうようなことを考えてましたね。テリー・ウィノグラード先生っていうMITで言語処理の研究をされてらした方がいらしたんですけど、自分自身、言語や情報共有という枠組みの中で言葉に凄い興味があったので、この先生の研究室にちょっとお邪魔しようと思ったんです。そこでたまたまgoogleの創始者であるラリー・ページやセルゲイ・ブリンと一緒だったんですよ。
確かパソコンのセッティングをしてもらったんですよね。
そうなんですよ!
それは記念になりますよね。その研究室では具体的にはどんなことをしていたんですか?
テリー・ウィノグラード先生が当時メインでやっていたのは、実際にはもうちょっと広い領域というかソフトウェアデザインで、特にウェブのインターフェースをもうちょっと工学的にどう良くしていったらいいのかというようなことでした。それまでの時代ってコンピュータが燦然と輝いていて、それに人間が合わせる時代でしたよね。それがだんだんコンピュータが家電側に近付いてきて、コンピュータこそ人間に合わせなきゃいけないんじゃないかなっていう考え方が普及していく過程の中でソフトウェアインターフェースの研究をするっていうそういうプロジェクトでした。
なるほど。
スタンフォードっていくつ研究所に所属してもいいので、データベース側も一般のテクノロジーテクノロジーした所に入っていたんですけど、そこは、本当に使えるツールってどういうものであるべきなのかなというところを研究するところでした。googleのあのインターフェースはすごいシンプルに見えますけど、本当に使えるっていうことを中心とした設計なんですよ。一見単純に見えるけど、それを本当に使えるものにするっていうのは本当に大変なことなので、いっぱいあるやり方のうちのこれが一番検索に適してるよとかそういうところは、研究を積み重ねた結果なのかなと思いますね。
そうですね。
僕は98年で日本に帰りましたけど、ラリー・ページとセルゲイ・ブリンはスタンフォードを中退してgoogleを立ち上げる時期だったんですよ。
そういう転換期ですね。稲垣さんとしても、国内にいらっしゃる時はというと自社サービスを補完するサービスと言いますか、自社サービスを促進させるサービスと言いますか、そこを強力にするサービスを研究されていたと思うんですけど、留学された瞬間に今度は未来に向けた新しいアーキテクトみたいなところに研究の軸足が変わったと思うのですが、それはかなりの刺激があったのではないでしょうか?
一番びっくりしたというか、彼ら学生が日本と違うなと思ったのは、あの当時ってドットコムバブルっていうのもあったんですけれども、ちょっと中退して会社作りますみたいなそういう学生さんが結構いたりしたことですかね。僕の感覚だとスタンフォードを途中で辞めないで、博士号を取ってから辞めたっていいじゃんって思うんですけど、そう言うと「そんなことない」「チャンスがあるのになぜやらない?」「チャンスがあるのにやらない方が異常じゃない」と言われていました。当時シーエーシーって500人の会社だったんですけど、「500人の会社で面白いか?」って聞かれて、あぁ、そうか、そういうメンタリティーなんだなと思いましたね。
研究の中身というか、それよりは人種の違いというか価値観の違いが大きかったということですね。
そういう意味では、自由な考え方で余計なしがらみが無いっていうところは彼らの強みかなと思いますね。
そうですよね。
やっぱり何をするにしても、日本的に考えたら色々あるじゃないですか。あそこの企業さんは何と言うだろうかみたいなこととか。
ありますよね。
あることを発明するにしても、お客さんにしてみると邪魔になるんじゃないだろうかとか当時はあったんですね。そういうところでビジネスシステムではないインターネットで一般ユーザーを相手にするものを見たっていうのは、後になって考え方が縛られない要素ではありますよ。
すごいサービスの側面を早いうちにご覧になったっていう感じかもしれないですよね。
そうですね。あとは、自分がこの先何をやるのかとかみたいなのはずっとあって、ある職種に固定されたわけではないので、ましてや何かやってねって言われるみたいなそんな形だったので、これから先どうしたらいいのかっていうのは常に思っていましたね。
ロールモデルがあまり見えないというところがあるんでしょうか?
そうですね。それもあるし、自分でもしたくないっていうのもあるんですね。
そういうものなんですか。
そうですね。理系だっていわれると文系に行きたくなったり、文系に行くと理系に行きたくなるみたいなそういう決め付けられたくないみたいなところは自分自身あると思いますね。
それは面白いですね。
いいのか悪いのかわからないですけどね(笑)
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