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第9回 小山哲志 氏 ビート・クラフト シニアエンジニア

今回は、グリー株式会社のCTOで第6回に登場いただいた藤本真樹さんからご紹介いただいた株式会社ビート・クラフトのシニアエンジニア、小山哲志氏にお話を伺いました。小山さんは、日本UNIXユーザ会を皮切りに日本PostgreSQLユーザ会、日本PHPユーザ会など、主にオープンソースソフトウェアをコミュニティ活動から支えてこられた功労者で、2007年、日本OSS貢献者賞も受賞されております。取材会場は、錦糸町にあるビート・クラフト社のオフィスです。

小山哲志 氏


1965年茨城県生まれ。大学留年とともにコンピュータとUNIXに転び、以後プログラミングの世界にどっぷりはまり込む。大学卒業後いくつかのソフトウェア開発会社に勤務したのち、2000年に株式会社ビート・クラフトの設立に参加して、現在に至る。大学卒業直後から多くのコミュニティ活動(下記参照)に従事し、長年のコミュニティでの活動を高く評価され、2007年にIPA(独立法人 情報処理推進機構)が主催する度日本OSS貢献者賞を受賞。(IPA:http://www.ipa.go.jp/)

日本PHPユーザー会 http://www.php.gr.jp/ 
日本KDEユーザー会(JKUG)http://www.kde.gr.jp/ 
日本UNIXユーザー会(jus)幹事 http://www.jus.or.jp/ 
日本PostgreSQLユーザー会(JPUG) 理事 http://www.postgresql.jp/

小山さんのコミュニティ活動について
→http://www.ipa.go.jp/event/ipaforum2007/program/pdf/oss-koyama.pdf
開発してきた主なサービスとしては
- CNET Japan ( http://japan.cnet.com/ )トラックバックサーバ
- AgileMedia Network ( http://agilemedia.jp/ ) 広告配信システムなど。
執筆に参加した書籍としては、
- PHP4徹底攻略 実戦編(ソフトバンクパブリッシング)
- 超極める!PHP (翔泳社)などがある。

川井: 本日は、よろしくお願いいたします。
小山: よろしくお願いいたします。
川井: 今回は、藤本さんのご紹介でご登場いただいきましたが、藤本さんとはどういうお知り合いなんでしょうか?
小山: 藤本さんとはPHPの仲間で、以前、ゼンド・テクノロジーズのジーブ・スラスキーCTOが日本にいらっしゃって、特に国際化まわりについて、日本のディベロッパーと打ち合わせたいというときに初めてお会いしました。その頃のPHPってスクリプトの文字コードをSJISで書けなかったんですよ。それを藤本さんがzend-multibyteという仕組みを作って可能にしたんですが、より汎用的にPHPで取り組むにはどうしたらよいかという話になって、興味のある人で集まったんです。それからは、PHPのイベントとかでお付き合いさせてもらっています。
川井: 日本PHPユーザ会ではご活躍とお聞きしていますが。
小山: 日本PHPユーザ会ってすごくゆるい集まりなんですよ。特に誰が中心とか誰がリーダーっていうのがなくて、なんとなくこういうことをやろうかといっても誰もやらないからしょうがないからやろうかみたいなそういう感じなんです。どこまでがメンバーっていうくくりもないですしね。
川井: じゃあ、好きなときに集まったり?
小山: そうですね。でも外からの依頼とかで仕方なく何かやらないといけないときは、しょうがないからやろうかみたいなノリですね。
川井: PHPカンファレンスって特に宴会が盛り上がってますよね(笑)
小山: (笑)ああいう大きな宴会をやったのは去年くらいからなんですよ。
川井: そうでしたか。とても楽しかったですよ。
小山: ありがとうございます。
川井: PCとの出会いについて教えていただきたいんですが?
小山: 中学校のときにNECがワンボードマイコンのTK-80っていうエポックメイキングなコンピュータを出したんですが、それは興味があったけどお金がなくて買えなくて、でも中学校の先生が面白い人で、日立のBASIC MASTERを学校に置いておいてくれたので、それを使ってちょこちょこBASICをやってましたね。それが最初ですね。
川井: どうして、そういうコンピュータに興味がいったんですか?
小山: 当時からオタクといえばオタクだったので、機械をいじったりするのが好きだったんですよ。パーツ屋さんと電機屋さんに2日に1度くらい通ったり、そういう少年だったんです。親父が電気系のエンジニアだった影響もありましたね。プログラミングはそのくらいで、一時期コンピュータから離れていて、高校のときに無線部に入って少しコンピュータはいじったんですけど、それほど面白くなかったんですよね。大学に入って、4年生のときに単位が足らなくて留年したんですけど、5年生は足りない単位をとればそこそこ時間があったので、コンピュータのバイトをすることにしたんです。ひょんなところから、知人がCGのスタジオを立ち上げることになって、そこにいったら当事流行りはじめていたグラフィックスワークステーションがあって、そこでバイトをすることになりました。そこで初めて本格的にUNIXを触って、C言語を勉強してコンピュータにどんどんはまっていった感じですね。
川井: 大学に入るまではあまりやってなかったんですね?
小山: そうですね。きっかけがなかったですね。当時SONYがNEWS(ニューズ)っていう32ビットのUNIXワークステーションを出しはじめた頃だったんですけど、1台400万くらいしたので、なかなか個人が触れる機会はなかったっていうのもありますね。たまたまできたばかりのCGスタジオでバイトすることができて、クボタコンピュータが国内で販売していたTITAN(タイタン)というでっかい冷蔵庫みたいなワークステーションを使うことができたんですよ。それを使って、憶えたての
C言語でプログラムを書きまくりました。
川井: そちらには、どれくらいいらっしゃったんですか?
小山: 6月くらいから卒業までですから10ヶ月くらいですかね。
川井: どんなものを作っていたんですか?
小山: こんな風にビルが建ちますっていうような建築用のデモビデオがあるんですけど、それを作っていました。当時としてはすごく早かったんですけど、今、考えると遅かったですよ。屈折して光が動くのを1枚つくるのに2秒以上もかかったりとか(笑)
川井: なるほど。面白そうですね。
川井: それほどはまっているとそのまま就職したりとか?
小山: いえ、それが普通に就職活動をしていました。今は、もうなくなっちゃいましたけど、高田馬場に東京グラフィックアーツっていう印刷会社向けに版下制作用CADを作る会社に新卒で就職しました。そこは運のいいことに、日本のインターネットの基礎になったJUNETにつながっていて、ネットコミュニティの元になっているようなNetNewsという、誰でも書ける分散掲示板があったんですよ。そこを介して様々なネットワーク上の人たちと仲良くなりました。
川井: それは、環境がよかったんですね。でも、小さい会社を選んだ理由はなにかあるのですか?
小山: 4年生で就職活動したときは、大手志向でいろいろ受けたんですけど、ぼろぼろに落ちたんですよ。最終的には内定をもらったんですが、卒業できなかったんで内定取消になって・・・。そして留年してコンピュータをやって、やっぱり面白いなって思ったんですよ。どんどん新しい技術が出てくるものだというのは分かっていましたしね。それで、コンピュータの方の仕事に行ってみようと思ったんですが、大きな会社じゃつまらないから小さめなところを探して入ったんです。
川井: 失礼ですけど、お年はおいくつでしたっけ?
小山: 42歳です。昭和40年生まれですね。
川井: じゃあ、バブルの真っ只中の就職ですね。
小山: そうですね。就職としては結構よくて売り手市場でしたね。
川井: ですよね。それで、東京グラフィックアーツさんには何年くらいお勤めになったんですか?
小山: 東グラには3年・・・もたなかったかな。。。
川井: そうなんですか・・・具体的にはどんなお仕事を?
小山:
PC98に専用のグラフィックボードをさして、まだWindows3.1も出てなかったので、その上で自前のウインドウシステムっぽいもの作って、その上で動く印刷向けのCADを開発していました。286のアセンブラとか勿論C言語とか。
川井: それって商用なんですか?
小山:
それは商用ですね。開発者が10数名、営業が20人くらいいて、サポートっていうか講習をするスクールの部隊がいて、営業が案内してくれたお客さん向けにセミナーをやったりとか、印刷業界向けのクローズドなシステムの販売ですね。
川井: 3年もたなかったのは、何か変化があったのですか?
小山: 仕事自体は面白くって、本格的にソフト開発をやるのは初めてでいろんなことを学びました。ただ印刷業界に閉じていたところがあって、せっかくコンピュータを仕事にしているのだから、コンピュータ業界自体をメインの軸足にしたいと思い始めていたんです。勿論、印刷のことは勉強してそれなりに面白かったし、でもコンピュータが好きだし。コンピュータを使って、コンピュータの仕事がしたいと思っていました。ちょうどある人が東グラを辞めて、自分で新しい会社を作るというのことで、そちらに誘われて移ることにしました。2年目の2月くらいで辞めて、アーツテックという会社の実質的な立上げに参加したということになりますね。
川井: その若い年代で立上げに参加ということは、やっぱり苦労されたんですよね。
小山: どうなんでしょうね。印刷の営業のつながりみたいなものもあったので、そちら経由でもいろいろと仕事はもらえたりもしましたけどね。印刷方面ではあるんですけど、印刷会社じゃなくて、出版社向けにページデザインをするようなソフトをサンのワークステーション上で作っていたんです。当時のページデザインのソフトって、ほとんどQuarkXPressがメジャーだったんですけど、雑誌のデザインって当事のいわゆるDTPに馴染まなかったんですよ。というのも、雑誌って最初に文字の枠を決めて、これは何文字って決まってその上でライターに発注する「先割」なんですよね。多くのページネーションって「先原」って言って、まず原稿があって、それを流し込んでみてそれでレイアウトを調整する発想なんで、雑誌のページデザインになかなか合わなかったんですよね。それでそういうことがあって、マガジンハウスの人と「先割」なデザインをするソフトを作りましょうって話になってやったことを覚えてますね。当時はまだパソコンだとスペックが合わなくて、ワークステーションを使って開発したんです。
川井: 私が本好きなのがあるのかもしれませんが、これもおもしろそうですね。
小山: そうですね。今ではQuarkXPressも賢くなりましたし、AdobeもInDesignを出ていますからね。
川井: なるほど。こちらには何年くらいいらしたんですか?
小山: アーツテックには7年いました。
川井: 10年くらい仕事をされて、大きな変化とか成長感ってどんなものが印象的でしょうか?
小山: アーツテックにいってからは、印刷業界というくくりがはずれていろんなことができたことですかね。DOS用のデバイスドライバーを書いたりとか、Appleがバンダイと組んで出したPiPPiNというゲームマシン用にゲームっぽいソフトを作ったりとか。MacをやってWindowsをやってUNIXをやって・・・ですね。
川井: すごいですね。技術はなんでもこなしちゃうタイプですね。
小山: 覚えちゃいますね。大学でコンピュータを専門にやったわけでもないですし、本格的にプログラミングをやったのは大学の5年からなので、いろいろな技術を覚えるのが楽しかったんですよ。
川井: 勉強のスタイルはどのような感じなのでしょうか?
小山: ひたすら本を読みますね。今もActionScriptの本を読んでいますよ。
川井: 家に帰っても勉強する方ですか?
小山: 比較的、通勤時間がながかったので、電車の中で結構、本を読んでいますね。往復3、40分ずっと本を読んでいますね。今は少し近くなったので、本を読む量が少し減りましたよね。でも同じペースでアマゾンとかで買っているので、溜まる一方です。やばいですね(笑)
川井: (笑)
川井: UNIXのユーザー会はいつ頃からなんですか?
小山: UNIXユーザー会(jus)に入ったのは最初の会社に入ってその年から参加しています。いろんなシンポジウムとかイベントをやって、途中からボランティアでいろんなことを始めたんですよ。
川井: 社会人1年目からこういうものに参加するっていうのは、なにかきっかけがあったんですか?
小山: 当時、jusが開いていたUNIX Fairっていう展示会に行って、入会するといろいろな特典もあるっていうので、そのまま入ったという感じですね。当時、jusは東京と大阪で年に2回シンポジウムをやっていたんですよ。そういうのも面白そうだからって行ったりしていましたね。そうしたらちょうど、大学時代のアニメーション研究会の集まりで友達だった人の上司が、jusの幹事をやっていて、それでいろいろ話すようになったんです。UNIX Fairの 各ブースの相互接続のネットワークをボランティアが引いていたんですが、そういうことにも参加するようになったりもしましたね。当時はまだINTEROPがなかったので、展示会場の各企業を相互接続するネットワークを構築するようなイベントってUNIX Fairしかなかったんですよ。ボランティアで参加しているうちに面白くなって毎年毎年、横浜のフェアの会場にいって、阪大の人達とか、当時UNIX Magazineに書いていたような人たちとも仲良くなりました。
川井: それでいつのまにか幹事になっちゃったんですね?
小山: そう、3、4回ボランティアで参加したあとに当時会長だった砂原先生に肩を叩かれて、「jusっていうのはボランティアをやるとボランティアポイントっていうのが貯まって、幹事をやらなきゃいけないんだよ」って言われ、まあそれは冗談だったんですが、良い機会なので幹事になったんです。
川井: 宿命という感じですね?
小山: 幹事になって、いろんなユーザーグループの運営とか、どういうことに気をつかってマネジメントしなきゃいけないってことは結構学んだ気がします。
川井: もう20年近くなりますかね?
小山: そんなことないんじゃないですかね。でも25歳くらいから幹事をもう20年近くやっているんですね。
川井: 相当なご重鎮ですね。
小山: いえいえ、もっと古い人がいっぱいいるんですよ。jusはもう25年ですからね。村井先生とかいろんな方が歴代会長ですよ。
川井: その後、ビート・クラフトに移るまでと現在の取り組みなどについて教えてください。
小山: アーツテックの頃はバブルのはじけたくらいで、給料もあがらなかったし、元々受託開発の会社なので、いろいろなことはできるんですけど、最新のものを追いかける感じじゃなかったんです。基本的にお客さんの要望ベースで、営業もきちんといたので、そんなにとんがった仕事はやってこないんで、段々、面白くないなって思い始めたんですよ。
川井: なるほど。
小山: そこで、またコミュニティの話になるんですが、当時BeOSのコミュニティをやっていたんです。Appleの副社長を辞めたジャン=ルイ・ガセーっていう人がいて、「PCのOSはいろいろなレガシィなものを動かすためにいろいろな互換レイヤーが入っていて重たい、新しいOSをOSも新しい設計でやれば軽くできるはずだ」っていう考えで、なんか変なBeBoxっていうハードウェアを作ったんですよ。PCの技術を使うんですけど、中身はPCではない。その上で動くBeOSもいままでのPCのOSと違って、マイクロカーネルでAPIはC++でっていうのものなんですけどね。そういうのが好きな人が日本で100人くらいいて、面白いからって集まって今で言うコミュニティを作っていました。その中の仲が良いやつらと焼肉屋で「もっと世間にアピールするならイベントやろう」って騒いでいたんですよ。それで、イベントの開催主体としてBeatJapanっていうユーザーグループを作ったんです。 あるときBeOS仲間の1人の竹本っていうやつが就職先を探しているという話をIRCでしていて、そのすぐ前にBSD仲間の人から新しい会社で人を探しているという話を聞いていたので、その会社を紹介したんです。それで竹本が遊びがてらその会社に行ったら、そのまま入ることが決まっちゃったんです。
川井: なるほど、なんかありがちなパターンな気がしてきましたね(笑)
小山: やっぱり、送り込んだ手前、どんなことをやっているのかなって遊びにいくじゃないですか。そしたら面白そうなことをやっているんですよ。それでこっちの方がいいかなって思って移っちゃったんです。
川井: そうだと思いました(笑)
小山: それからあまり表に話せないなんだかんだありまして、結局BeOS仲間が半分とそれ以外が半分の7人でビート・クラフトを設立しました。
川井: なりほど。今は、その竹本さんが社長をやられているんですね。
小山: そうですね。それからもう7年になりますかね。
川井: 「七人の侍」みたいですね。
小山: でも、やっぱり最初は仕事がないんですよ。当事お世話になっていた医療業界向けの論文の検索システムを運営しているメテオインターゲートという会社がありまして、そのシステム開発を私達でやっていたこともあって、ビート・クラフトも自前でオフィスを借りるまでの3ヶ月くらい間借りさせてもらっていました。
川井: 会社を作ったときは、どんな会社にしようと考えていたんですか?
小山: 半分はBeOS好きなんですよ。今のうちの開発の親玉をやっている梅野さんって人が、中京テレビの子会社にいた元テレビ屋さんなんですよ。BeOSっていうのはメディアOSという売り方をされていたくらいで、MediaKitというAudioやVideoを扱うための一種のミドルウェアを持っていて、その梅野さんが「コンピュータをテレビにしたい」って言っていたんです。当時はもうBeOSがビジネスとして上手くいっていないのが見えてきていて、私達もなんとかBeOSでビジネスをしようといろいろやったんですが、結局ものになりませんでした。 じゃぁMediaKitに相当するものを自分達で作ろうということになり、LinuxとWindows上でストリーミングや動画や音声を簡単に扱えるようなフレームワークを自社開発しました。それがJakar (じゃかーる) という名前のマルチメディアフレームワークで、現在のビート・クラフトのメイン業務になっています。PCのOS用には Windows Media でも Real でも QuickTime でもいろいろあって競争がはげしいので、こちらは組み込み向けに特化して、なるべく軽く動かしましょうよという感じでしたね。
川井: どういうシーンで使われているのが多いんですか?
小山: まだ、実社会に出ている実績はないんですが、監視カメラとかSTBなどです。
川井: 面白そうですね。
小山: 組み込みのマルチメディアのほかに、Webアプリケーションもやっていました。単純に私がWebが好きっていうのもありますが、ビート・クラフトができて1年目のときにはお金がなかったので、友達に「仕事があったら連絡ください」というようなことを言ってまわってたら、JPNICに友達がいまして「Webページを作って欲しいんだけどやる?」って言われたんです。それで早速話を聞きに行って見積もり依頼を受けて、社内でいくらの見積もりを出すか相談したわけです。100万くらいだと嬉しいけど、こちらも仕事がなくて是非とりたいから値段を下げて80万くらいで出したら、翌週「安すぎるよ」って電話がかかってきちゃました(笑) 結局、その仕事は先方の都合で無くなったんですが、それがきっかけてJPNICさんとつながりができたんです。当時、日本のドメインって属性ドメインしかなかったんですが、汎用ドメインと国際化ドメインをJPNICさんが同時期に導入することになって、申請のWebサイトを作ってくださいって話が入ってきたんです。業務形態としては、JPNICに出向して、JPNICの人たちと、裏の業務システムを作っていたSRAの人たちを一緒になって仕事をするという形でした。ここではじめてPHPで本格的にプログラミングし始めた感じですね。
川井: なるほど。
小山: 当時はPHP3が日本では全盛だったんですが、PHP4の方がパフォーマンスがいいし、ちゃんと使えば日本語を使えるらしいということだったので、PHP4で全部やりました。
川井: 結構、大きな仕事ですよね。
小山: そうですね。結構でかかったですね。それまではJPNICのドメイン申請受付は全部メールで、メールを送るとPerlのスクリプトが本文を解析して、あとは人手で処理という感じだったので、JPドメインの受付をWebでやるってことは初めてだったんですよ。しかも汎用jpって、早いもの勝ちではないんですけど抽選だってことで、とにかくたくさんの申請が来ることが予想されるんで、DBもがっつり作らないといけないってこともあって、都合、30人くらいのプロジェクトだったと思いますね。
川井: それはすごい規模ですね。どんな開発環境で構築されたんですか?
小山: Linux、PHP、Apacheで、バックエンドDBはOracleなんですよ。ただ申請するたびにメインのDBにつなぐとあれなんで、各WebサーバーにPostgreSQLを置いておいて、申請途中の情報はそこに保存しつつ、確定を押すと申請内容がOracleに送られるような仕掛けにしていました。
川井: なるほど。そういう仕掛けがないと持たないかもしれませんね。
小山: 今、考えるとセッションでもよかったんじゃないかと思うんですけどね。まあ、当時はあまりノウハウがなかったので。。。でも問題なく動いていましたね。ドメインの申請だけなのに、フロントエンドのWebが7台みたいな豪勢な感じでしたね。申請の開始の時間帯には詰めてくれって話になって、近くの淡路町ホテルで皆で待ち構えていたんですよ。合宿っぽくって面白かったですよ。
川井: これがPHPとの出会いなんですね。
小山: そうですね。BeOSのイベントの簡単な受付システムは、PHP3で少しやっていましたが、本格的にクラスとか作って大規模に開発したのはこれが初めてでしたね。それでPHPのノウハウが貯まって、PHPのイベントで話すネタも増えてきたんですけど、そうしたら原稿とか書かない?って声をかけてもらったりして、ずぶずぶとはまっていって、趣味と仕事がごっちゃになっていきましたね(笑)
川井: なるほど(笑)
小山: コミュニティと会社もごっちゃになって仕事をするという今の形態になってきたかなって感じですね。
川井: 趣味と仕事とが一緒になってきたとおっしゃってましたが、今後の展開はどのようにお考えですか?
小山: まあ、もう6年くらい、趣味と仕事は一緒になっているんですけどね(笑) 実は、先日、OSS貢献者賞というのをいただいたんですけど、コミュニティをやっていると実は仕事にも返ってくるんですよね。コミュニテイで知り合いになった人から仕事を頼まれたり、普通に仕事をしていてもコミュニティで名前が売れているとプラスになったり。そこは、仕事にそんなに影響が出ない程度にはコミュニティは続けていきたいですね。
川井: なるほど。
小山: あと仕事の場合は、その都度その都度、やりたいことを見つけてやっていく感じですかね。やっぱり一歩離れてみると、足らないものがたくさんあるんですよ。それを使うとお客のメリットになる新しい技術がどんどん出てくるし、そういうのをキャッチアップして、お客さんに最大限のバリューを提供するというのが受託開発の面白いところでもありますし。 コミュニテイの場合は、必ずしも大きくすることが目的じゃないですが、いろんなことをやろうとすると解決しなくちゃいけない問題点がだんだん見えてきます。あとはどういうアプローチでその問題点を解決するかを考えて、みんなで話し合ってより問題点を共有する人達で協力して実行するのが必要なんです。 ちょうど今年のPHPカンファレンスは、テクニカルな人たちの比率がとても高くて、バランスがかなり悪かったんですよ。去年までは、テクニカルな人たちとそれ以外のデザイナーとか経営者が半分半分だったんですけどね。これはもう1つのイベントで両方やるのは難しいってことになっていて、今後はビジネス的なイベントは別の日にやろうみたいな話をいろんな人にしているところです。今年のカンファレンスの後の飲み会でこの話題になったんですけど、PHPのテクニカルじゃないビジネスや入門者に特化したイベントをやりたいなあと思っているんですね。
川井: なるほど。来春ですかね。
小山: カンファレンスは毎年夏なので、2月か3月にやって、夏にテクニカルというサイクルで年回できるといいなあと思いますね。PHPについては、現在の私のテーマはこれですね。いろいろやっていると問題が貯まっていくので、ストックしておいて、折を見た頃に解決するっていう感じですね。その時にやっぱり旗を振るのは自分だったりするんですが(笑) でも全然エンジニアリングの話じゃないですね。カンファレンスは毎年夏なので、2月か3月にやって、夏にテクニカルというサイクルで年回できるといいなあと思いますね。PHPについては、現在の私のテーマはこれですね。いろいろやっていると問題が貯まっていくので、ストックしておいて、折を見た頃に解決するっていう感じですね。その時にやっぱり旗を振るのは自分だったりするんですが(笑) でも全然エンジニアリングの話じゃないですね。
川井: それ、ちょっとお聞きしたかったんですけど、小山さんってビジネスと開発のバランスがすごくいい方ですよね。すごくうまくいっている感じがしますが、そのあたりはいかがですか?
小山: 私が、どっちでもできるのは、会社がそれを許してくれているのが大きいと思いますよ。私みたいに場合によっては、業務時間でもコミュニティの緊急サポートとかができるなんていうのは、今の日本の会社だと普通は許されないことだと思うんですよ。うちの会社は完全に裁量労働制になっていて、仕事ができていれば極端な話会社に来なくてもいいくらい裁量の範囲が広いので、その意味では会社にとても感謝しています。ただ夜中に家にいてもお客さんからエマージェンシーがあれば仕事はしますから、どっちもどっちなんですけどね。確かにコミュニティにずぶずぶに関わっていけるのはそういう状況に恵まれているからというのもあると思います。
川井: 日本の会社ってエンジニアをビジネスやマネジメントから遠ざけて、若いうちは開発しかさせないでおいて、その癖、マネジメントやビジネスの感覚がない人を行く行くは重用しないじゃないですか。これはひどいと思うんですよね。
小山: おかしいですよね。最近は少し出始めていますけど、エンジニアがエンジニアのまま上に上がっていくキャリアパスが外資系の一部しかなかったりしますよね。結局、コードを書きたい人はコードを書くために常に自分のスキルを磨いているんだから、その磨いたスキルを使ってもらった方が組織としてはいいはずなんだけど、日本の組織は途中から「上がって」マネジメントのスキルをまた磨きなおさないと上に行けないっていうのがありますよね。
川井: 最終的には管理職にならないと給料が上がらないっていうのが日本ですよね。営業みたいに歩合っていう理屈があればまだいいですけど、プログラミングの歩合ってまた難しいですからね。
小山: 本当にすごい人もどうしようもなくへぼい人も同じ1人月で測っちゃうからそうなっちゃうんですよね。実際にプログラミングを経験している人は、人によって生産性が全然違うってことは分かっていると思いますけどね。IBMとか一部のところはエンジニアのまま上にいけるキャリアパスがあると聞いています。
川井: 楽天さんが昨年、作られてトライしていますね。
小山: そうなんですか。頑張りましたね。
川井: あとは、向き不向きを無視して、会社はエンジニアに開発の仕事をやらせ続けてしまうことがありますよね。適正や素養をしっかり見極めて、キャリアパスを一緒になって真剣に考えている会社って少ないんですよ。これもエンジニアにとっては最終的に大きな問題を背負う原因になっていると思うんですよ。
小山: 向き不向きはあると思うんですが、それは本人にしか分らないですよね。なので、いろんなことをいっぱいやってみて、自分に向くものを早く見つけることが大事でしょうね。そういった意味では、大きな会社にはいちゃって、ずっとこれをやってろみたいな環境の人はかわいそうかもしれませんね。その仕事が合えばいいんでしょうけど、合わないとその人の評価がそこで下がってしまって、それで自信もなくしてしまってってことになりますよね。自分の場合は、アーツテックっていう会社で本当にいろいろなことをやったんですが、それは結果的にはよかったですよね。意外となんでも好きだなって分りましたからね。ちょうどオブジェクト指向にしても何にしてもいろいろなものが入ってくる過渡期だったので、ちょっとずつ勉強していけばよかったんですけど、今の若い人は新しい技術を一気に習得しないといけないんで、大変かもしれませんね。そういった意味では、自分はIT業界に入った時期としては案外よかったのかもしれません。
川井: ちょうど流れもそちらの方にいきつつありますが、若い人へのメッセージをお願いします。
小山: 若くてコードを書いている人の中にはすごい人がいますね。すごく楽しそうでフットワークが軽くて、こちらが習いたいくらいです。どの時代もそうなんですけど、そういうすごい人たちがいて、そうでない人たちがいてっていう風に極端なのかなって感じがしますね。すごい人を見ちゃうと、「絶対に自分にはできない」とか思いがちなんですけど、決してそんなことはないです。私がjusに入って、いわゆるこの世界の有名人っていわれる人といろいろ話をして仲良くなるときに、よく周りで言われていた話なんですが、「UNIX Magazine」がだんだん同人誌に見えてくるっていう逸話があるんですよ。記事を読んでいても、それを書いている人の顔が頭に浮かぶようになると「この人もすごい人だけど、別に特別なんじゃなくて、普通の人なんだ」って思えるんです。そうなると自分だって頑張ればできるかもしれないって思えてくるんですよ。
川井: なるほど。そういうものかもしれませんね。
小山: 今度は自分が記事を書く段になって、場合によっては特集の相談とかされて、世に出て行く雑誌の裏側なんかも分かってくると、やっぱり作ってるのも普通の人だってなってくるんですよ。記事を書いたから偉いとかそういうのではなく、頑張ればできることなんですよ。
川井: 傍目から見ているとすごそうだけど、飛び込んでしまえばってことですね。
小山: そうそう。ただ、世に出て行く人たちって、自分が好きなことに対して、すごく頑張っているんですよ。だから早く好きなことを見つけて、なんか頑張れるような状況に自分を持っていくのが大事なんじゃないかなって思います。嫌いなことを頑張るのは絶対無理ですからね。
川井: 見ていると苦しんでコードを書いている人も結構いますよね。
小山: 苦しいのは、耐えて頑張るっていうのも良し悪しで、それが自分の体力だったり幅の広さになる場合もあるんですけど、ある点を越えると無駄でしかなくなると思うんですよ。状況を変えようとして駄目だったら、ぽんと辞めちゃった方がいいような気がします。業界は人が足りなくて困っているので、「こういうことがやりたいんです」っていう看板を持っていけば、みんなきっと、わーっと食いついててきますよ。
川井: なるほど。確かにそうですね。
小山: 面白いことをやりたいって人を求めている会社はいくらでもあるので、どの会社でも本当にそうですから、やりたいことに対して、自分が自信を持てば、絶対につまらない人生にはならないとい思いますよ。
川井: 本当に今日はいいお話をありがとうございました。
小山: いえいえ、こちらこそ、ありがとうございました。
社名 株式会社ビート・クラフト(英名:BeatCraft, Inc.)
事業内容 ソフトウェア開発
・メディアフレームワーク開発
・アプリケーションの開発
・デバイスドライバ開発
・LinuxKernel開発
・Webサービス/アプリケーション開発
本社所在地 〒130-0013 東京都墨田区錦糸2-13-6 S.HARUYAMA BLDG5F
URL http://www.beatcraft.com/

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