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第28回 山田進太郎 氏(ウノウ株式会社代表) このエントリーを含むはてなブックマーク

今回は、ウノウ株式会社代表をされている山田進太郎さんにお話をお聞きしました。山田さんは、早稲田大学在学中に、早稲田リンクスの代表をされたり、楽天株式会社にて楽天フリマオークションの立上げなどを経験されています。ウノウ株式会社では写真・動画共有サービス「フォト蔵」などのサービスを提供しております。特に山田さんの「エンジニア」に対する視点は非常に冷静なものがありました。


山田 進太郎 (やまだ しんたろう) 氏

早稲田大学在学中に、早稲田リンクスの代表、楽天株式会社にて楽天フリマオークションの立上げなどを経験。2000年3月卒業後、NPO Zaiya.comを立上げ後、フリーのウェブ・ディレクター・プログラマーに。2001年8月有限会社ウノウとして法人化。2002年6月より雑誌定期購読エージェンシー「富士山マガジンサービス」に参画し、ウェブサイト設計全般を担当。2003年6月大手卸会社と提携し、DVD販売サイト「DVD生活」を開始し新作映画情報サイト「映画生活」を事業化。2004年2月よりシリコンバレーに拠点を移し、インターネットビジネスのリサーチなどをする。日本から世界的サービスを作るため、2005年2月に帰国し、ウノウ株式会社に組織変更。写真・動画共有サービス「フォト蔵」、ケータイ動画共有サイト「ビデオポップ」などの立ち上げでディレクションを行う。主に新規ネットサービスの立ち上げを担当。

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川井:よろしくお願いいたします。
山田:こちらこそ、よろしくお願いいたします。
川井:まず、パソコンとはいつぐらいに出会ったのでしょうか?
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏たぶん小学校の低学年ぐらいで、MSXってゆう、テレビというかパソコンみたいなものが最初です。両親がAIBOとかVAIO505とか、携帯も新機種がでるたびに機種かえる新しい物好きだったので、MSXが出たときにすぐ買ってきたんです。それが家にやってきて、結構ゲームをやったりして、1画面プログラミングとか雑誌に出ていたのを動かしたりとかを母親がしていたんですよ。僕自身は何か打ち込むことはしても、何で動いているのかとか仕組みはまったくわからない状態でしたね。高校時代も家に、PC-98とかもあったのですが、ほとんどゲームしかしていない感じですね。
川井:その後はどういう風にパソコンと関わっていったんですか?
山田:大学に入ってからインターネットを初めてやってみて、結構おもしろいなと思ったんですよ。大学1年の時YahooJapanが出来て、ホームページを作ろうと思ったんです。それでホームページをHTMLで作って、主に日記を書いたりしてホームページをしばらくやっていました。その時ようやくHTMLに出会って、掲示板もネット上に転がっていたものをダウンロードして設置していましたね。
川井:それは、趣味とかと関わって集約されていったんですか?それとも、比較的パソコンが好きでという感じですか?
山田:僕はいろいろあった感じですかね。本を読むのも好きだし、映画を見るも好きだし、映画生活のサイトも、もともと僕の趣味でレビューをつけたりとかしていました。オンラインで映画のサイトを作ったのが2000年ぐらいなんですけど、その頃ネット上で試写会の応募があって、倍率がすごく低くて応募するとほとんど当選してたんですよね(笑)。1週間に一個ぐらいは当選して、そういった情報を集めた情報サイトがあったら便利かなと思って作ったのが始まりですね。どちらかというと映画とか、本とか、旅行とかも好きで、いろいろある中でその中にパソコンがあったって感じですかね。
川井:そうなんですね。
山田:大学も一応インターネットサークルで、早稲田リンクスに所属していて、やっていることはインターネット的なことは全くなくて(笑)。みんなで取材とかして、それを記事にしてのっけるという感じだったんです。イメージ的には、同人誌的なノリがあり、面白い企画を立ててみたいな。
川井:同人誌がネットであると!!
山田:その時は、Yahooがすごいとかはあったりしても、インターネットがどうのこうのだとかも、そこに対して、すごい、これしかないって感じはなくって。卒業するときも広告代理店とかに行こうかなと思っていたりしていたんです。
川井:なるほど(笑)
山田:とにかく、いろいろやっていましたね。サークルは本当に組織運営って意味ではすごい役にたちましたね。
川井:なるほど。そうだったんですね。

川井:学生時代は楽天でアルバイトを?
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏そうですね。アルバイトというか、大学4年生の時に就職活動をして入りました。大手の広告代理店の就職も一応受かった所もあったんですが、インターネットビジネスするほうが面白いかなと思って。それで大手はお断りして、楽天に入ったという感じですね。
川井:新卒入社で?
山田:新卒なんですが、今すぐ内定者インターンとして働いて、という感じです。リンクスの先輩で、後に「みんなの就職」という会社を創業する伊藤さんという人がいて、その人に「どっかいい会社ないかな?」と話したところ楽天を紹介して頂いたんです。まだ20数名しかいない会社で上場もしてなかったんですが、結構面白そうかなと思いまして。ほかにも、サイバーエージェントとかも受かっていて、どっちがいいかな?と思っていたのですけど、楽天のほうがビジネス的に面白いかなと思ったんです。あと社長の安定感とか(笑)。
川井:(笑)
山田:まだ学生だったので、そういう部分も重要だったのです。それで楽天に内定したので、社員の様に働かせてもらった感じですかね。
川井:ネットマーケティングに興味があったということですが、どういうところに興味を抱かれたんですか?
山田:インターネット自体は、ずっと面白いなと思っていました。自分でもホームページを立ち上げて、知らない人とメールでやり取りしたりもしていたので、もっとこれが当たり前になるだろうと思っていたんです。その過程で何か面白い出来事が起こるだろうとも思っていました。結構新しい分野なので、わりと若い人たちにも活躍の場があるんじゃないかなというところ興味にを持った感じですかね。
川井:なるほど。
山田:僕としては、いつも選ぶときには、わりと楽なほう楽なほうを行こうと思う傾向があって。そうすると何か、トラディッショナルな企業に入って、トラディッショナルな競争をしていくとやっぱり大変かなと思うので。
川井:そうですね。
山田:そういう意味では、インターネットとかものすごく新しい分野なので、若いってこと自体がすごい武器になったりするのかなと思ってました。
川井:なるほど。
山田:楽天で半年ぐらい働いてみて、結構会社の流れとか、こうゆう風にやっていくんだなということが、すごく分かった気になってしまったんです。新規事業の立ち上げを本当に3人位でやっていて、それが全部ガラス張りの状態の場所だったので全部見えていたんですよね。
川井:そうなんですね。
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏そうゆう意味では、自分でもやってみたいなとすぐ思ったし。その時ちょうど、早稲田の教授や僕の友達から独立というか、大学で独立支援のプロジェクトを勧められて、そっちをやってみようと思い、楽天自体の内定をお断りした様な感じですね。
川井:なるほど。結局、インターンだけ行って入社しなかったということですか?
山田:そうですね。当時楽天がそれほど知られていなくて、僕が楽天という会社に行くみたいな話をしたら、パチンコ屋?みたいなことを言われました(笑)。
川井:(笑)
山田:でも、それ以降すごいどんどん有名なっていったんですよね。
川井:そうですね。
山田:そしたら、元楽天みたいなイメージで結構見られるんですよ。それはフリーとかで仕事をしていた時には、ものすごく役に立ちましたね。
川井:なるほど。
山田: どこの誰?みたいになると思うので、そういう意味ではすごいラッキーでしたね。熱気のあるベンチャーで働けたことや、その雰囲気とかはすごい勉強になりましたね
川井:吉田敬さんとは、その辺ですでにお知り合いになっていたんですか?
山田:そうですね。僕が入って、しばらくして、吉田さんが入ってきました。僕が新規事業開発部で、彼は開発部にいたので、そんなにすごい接点があった訳ではないんですけど。吉田さんはどちらかというと、そこでのし上がっていった感じで。
川井:そうですね。
山田:経歴だけみると、平からのし上がったすごい人のイメージですが、当時は気のいい先輩ってイメージでしたね。僕の直属の上司もリクルート出身でしたし。
川井:あっそうなんですか?
山田:吉田さん結構中日ドラゴンズ大好きでしたね。
川井:あっそうですね。(笑)
山田:僕も一応名古屋出身なので。その辺でいろいろと気があったりして、ちょこちょこ話をしたりとか、ご飯に行ったりしていたという感じですかね。
川井:うちの武勇伝にも出ていただいたりしまして。
山田:そうですね、読みましたね。吉田さんとは普段あまり昔話をしないもので、ああそうゆうことだったのかと思いました。(笑)
川井:(笑)
山田:今、取締役になっていただいてるんですよ。
川井:拝見いたしました。先週リリースされていましたね。
山田:大きくなってきたときのマネージメント的なアドバイスをお願いしたくて。僕はサービスを作る部分の方が好きなので、人のマネージメントとか出来ない訳じゃないんですけど、あまり得意ではないんです。そういう部分で、いろいろとアドバイスを頂いたりしてます。

川井:楽天をやめて、大学発ベンチャーみたいな所のインキベーションをやられたんですか?
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏そうですね。最初は早稲田生が、特にITの方でもうちょっと元気になってほしいと思って始めました。大学のITインフラなどをかなり推し進めてきた村岡先生という方がいるんですけども、その先生の研究室は早稲田生が千里眼という検索エンジンを作っていたりしている研究室でして、先生本人も分散コンピューティングの様なことをされていて、IT分野で若い人の助けをしようということをしていたんです。僕自身ももともとNPOみたいなものにものすごい興味をもっていて、大学時代にアイセックもやっていたので、先生のやろうとしていたことには非常に興味を持ちましたね。アイセックは国際ビジネスマンみたいな人間を育てる名目でNPOとして世界中にあって、持続性がある感じの運営をしているんです。ただ、世の中にはお金で解決できるものがあれば、出来ないこともあると思っていまして。
川井:そうですね。
山田:お金で解決できる部分はうまく回っていているのですけど、お金で解決できないNPOとかNGOとかはなかなかうまくいかないんですよね。そこの部分は今でも関心があって、ずっとやってみたいと思っていたので、いい機会かなと思って始めました。
川井:なるほど。
山田:初めはうまくいっていて、いろんな面白い人と会えたんです。その時の人脈はその後活きてきましたね。3年ぐらいはフリーでやっていたのですが、仕事に困ることはなかったし、いろんな人がいろんな仕事を紹介してくれて。インタビューとかしに行ったり、講演とかやって結構有名な人とか呼んだりできました。結構そういう意味で、いろいろな人と知り合いになれてよかったなと思っています。
川井:そうなんですね。
山田:ちょっと違っていたのは、僕は何か強いNPOというか、稼げるNPOみたいなものを作りたかったんです。例えば、企業とかから会費を取って、当然給料もNPOからもらってとか考えていたんですけど、そこまでの能力・経験とか含めて、ぜんぜん足りなかったですね。村岡先生とかほかの人達とか含めて、一応場所とか、サーバは提供するけど、個人にお金を払うのは違うよね?と。従来のボランティア型組織を考えていたので、僕の力不足と方向性の違いもあって、手伝ったりはしつつもフリーでやってました。2000年の秋から、仕事を受け始めて、2004年位までは、フリーで続けている状態でしたね。
川井:半年ぐらいはNPOで、そのあと3年強はフリーだったということですか?
山田:はい、そうですね。
川井:早稲田初のベンチャーってあまりクローズアップされてなかったと思うのですが、その当時はどうだったんですかね。今、興味があっておもしろいなって思ったんですけど、当時から育成したとゆうか、目をつけたところで、伸びたところはどこかあるんですか?
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏そうですねぇ・・・村岡先生の研究室出身でルナスケープという会社があるんですけど、ルナスケープの開発していた人間が僕と同じ年で。村岡先生の研究室で研究していたものを事業化したもので、ブラウザを作ってすごくうまくやって、今年はシリコンバレーに行っているみたいですよ。あと、Utagoeっていう会社も、村岡研究室のもうちょっと上の世代の方達です。
川井:なるほど。
山田:そうゆう部分で、こうやってやればいいんだと思ったかもしれませんね。その当時あった、JobWebがセッションをやってくれた時に、一緒に来てくれた三根っていう人がいて。彼はソニーに入って事業戦略をやっていたんですが、今はインキュベーションの会社(株式会社insprout)をやっていて、うちと一緒に合弁会社を作ったんです。そういう形でいろんなところでつながっていますね。
川井:そうなんですね。
山田:insproutがルナスケープを支援したりとかしていますね。本当に、つながりはたくさんあります。
川井:すごいですね。そのときの人脈・経験がいい方向にいってるんですね。
山田:そうですね。同世代でもそうですし、もうちょっと上の世代の人達にもいろいろ人脈が出来ました。日本のインターネットベンチャーやっている人達とほとんど知り合いになれたので、それはそれで、すごくよかったかなと思いますね。
川井:なるほど、わかりました。

川井:その後フリーになったということですが、何か思うところがあって会社に入らなかったんですか?
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏そうですね。僕自身、Webサイトを作るのが好きで、普通、営業の人がいて、エンジニアがいて、こういうシステムを作ってほしいと営業に言われても、システム的には出来ない部分が出てくるんで、その間に立って、エンジニアと一緒に全体を作っていくことがすごく面白いなと思ったんです。その部分が出来る人は、今もほとんどいないと思いますが。当時も希少性が高かったんで、いろんな案件が持ち込まれる様になり、儲けることも出来たので。とりあえずそれをやってみようと思いました。あと、僕の中では、漠然とした夢みたいなものだったのですが、ずっと昔からアメリカに行きたいとすごく思っていたんです。高校、大学のときも、行こうと思っていましたね。
川井:なるほど。
山田:でも結局、行かなかったので、すごくコンプレックス的なものがあったと思います。日本自体が好きなので、ここを離れるのもなと思って日本に残っていたのですが、やっている中で、やっぱり行きたいなって思いが結構あって。。。特に、インターネットだと、シリコンバレーが一番中心になっていて、そこに行きたいという願望があったんです。仕事をして、お金をためて、それで行こうと思っていたら、思ったよりは早くお金が貯まったので、2002年の春ぐらいに行こうと思ってしまったんです。でもその時丁度、アメリカ政府がやっているダイバーシティープログラム(DV)というものに応募したら、たまたま通ってしまい、通ったことで逆に、ほかのビザが申請出来なくなっちゃったんです。
川井:そうなんですか?!
山田:それで、結果的に2年ぐらい待つことになってしまったんです。面接などのプロセスがすごい遅くて。。。毎年10月から始まって9月ぐらいまでの間で、当選した人の中で面接が行われているんですけど、その中でもさらに当選番号っていうのが関係していて、HPに「今月は何番〜何番の人が面接です」みたいな感じになっていたんです。それで、僕が当選した当選番号が結構遅かったんですよ。それでかなり待ったんですけど、僕もなんだかよくわからないし、弁護士も使わずいろいろ自分で調べたりしていたら、面接してアメリカ行くまでに結構時間がかかりそうだというのが数ヶ月たったときにようやくわかりまして。それでもう、待ってられないから行こうと思って実際現地へ行って家探しを始めました。でもなかなか見つからず困っていたタイミングで、ある人から、「富士山マガジンサービス」という雑誌の定期購読のベンチャーの立ち上げを手伝ってくれないかというの話があったので、「おお、そうか」と思ってそれをやることにしたんです。それが、2002年の夏ですね。
川井:それは、業務委託のフリーで?
山田:そうですね。一応、僕自身もお金出していたので、そういう意味では創業メンバーみたいな感じでやっていましたね。お金のもらい方だけは、業務委託的な感じでもらっていました。そういう都合いろいろやっていて、結局アメリカに行ったのが2004年の2月ぐらいです。
川井: ようやくって感じですね。
山田:ようやくそこまで行った感じです。

川井:アメリカではどんなことを?
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏とりあえず、右も左もわからなかったので、学校に行って、何やろうかなと思いながらふらふらしていていた感じです。
川井:(笑)
山田:いろいろ好きなことはあったんですよ。インターネットもすごくおもしろいなと思っていたんですが、カフェ、不動産ビジネスとかいろいろしてみたいとも思いまして。アメリカってご飯がおいしくないので。
川井: そうですね。
山田:おいしいものを出せば、流行るのではないかなという安易な思いがありまして。向こうで知り合った日本人で、以前、日本食のレストランをやっていた人がいたんですよ。引退したけど、あまりにもつまらないので、もう一度その人と一緒にレストランをやろうという話が出たんです。
川井: なるほど。
山田:実際、物件を見に行って、いろいろ教えてもらっていく中で、アメリカでの飲食をやるにあたっても、日本で飲食をやるにあたっても、すごく大変なことが分かったんです。たとえば、トイレの大きさとかみんな規則で決まっていたりとか。要するに、車椅子の人がちゃんと店の中で移動やトイレ等使用できないといけないので、日本のほとんどの飲食店は違法になってしまうんですよ(笑)。
川井:そうなんですね。
山田:規則とか、保険とか、ちょっとした事故でもそれだけで破産してしまいますね。規則がすごく厳しくて、物損がものすごくかかるし、僕もそんなにお金を持っているわけではないので、なかなか厳しいなと思いました。一番厳しいなと思ったことは、一番初めにいろいろなことを自分でスタートしなきゃいけないわけじゃないですか。
川井:はい。
山田:それでいろいろ考えたときに、やっぱりインターネットでWebサービスを作って、いろいろな人とコミュニケーションをとりながら、サイトを作っていくほうが、関心があるということに気がついたんです。
川井:なるほど。
山田:あとは、純粋な英語圏で仕事をするのではあれば、あと4、5年は勉強しなければ、難しいなと。
川井:そうでしたか。
山田:Webエンジニア武勇伝 山田進太郎氏人脈って意味でも、日本では、インターネット業界の多くの人と知り合いですが、アメリカではゼロからはじめないといけなかったんですよね。だったら日本で会社を作って、それでもういっぺん日本で作ったプロダクトをもってアメリカに来る。自分としては、その方が早いのではないかと思いました。コスト面でも、いいエンジニアは年収も高いし、それだったら、日本で資金調達したほうがやりやすいと思ったんです。いろいろ総合的に考えて、日本でビジネスすることにしました。ちょうどその頃、今共同代表としてやっている副社長から、アメリカ行っている間に、メールをくださいと連絡がありまして。彼は、サイバーエージェントの社員一号で、藤田さんの本とかにも載っていたりしているんです。サイバーエージェントも社員が1000人超えてきて、「自分でビジネスをやろうと思っているんだけど」と言ってきたんですよ。彼は、営業畑の人間で、エンジニアリングのわかる人とやって行こうと思っていて、もしよかったら、一緒にやりませんかと話があったんです。じゃあやりましょうという感じで始まった感じです。それが丁度、2005年の2月位かな。そこで、株式会社にしました。それまでは一応、有限会社を持っていて、それは僕のプライベートカンパニーだったので。
川井:そういうことだったんですね。2001年の設立でしたよね?
山田:そうです。一応それは箱として持っていたんですけど、僕のポケットとして使っていただけでした。そこから本格的にやり始めて、今丁度、3年ちょっと位ですかね。
川井:なるほど。お話を聞いている限りでは、会社に勤める気はさらさらなくて、自分でやるってことが大前提で、ずっとフリーの時から来てらっしゃると思うのですが、元々そういうつもりだったんですか?
山田:いや、別にそうでもないと思います。たまたま、そっちのほうがよかった程度なのかなと思ったりはします。
川井:選択肢になかったわけではないんですか?ということは、会社に勤めるということもあり得たんですか?
山田:そうですね。それぞれの目的別ですかね。アメリカ行くために、お金とためようと思って働いたり。目的のためには、なかなか会社の中では出来なかったこともあるかもしれないですけどね。
川井:起業することをずっと前から決めていたのかと思いました。
山田:いや、そうでもないんですよね。僕も実はそんなことになるとは思っていなかったんですよ。一応、大学のときからビジネスっていうのは一つの分野としてものすごく興味があって、ビジネス本とか読んだり、講演とか聴きにいったりはしていたんです。でも僕が大学4年の時にマザーズが出来て、それまでは上場まで何十年という長い経験が必要だったりして、リスクマネーとかもほとんどない状態だったので、そういう意味では起業自体が本当に遠い話になってしまっていたという感じがありましたね。渡邉美樹さんとか、いろいろな人の話を聞きに行ったりとかしてみたんですけど、もはや天上の人みたいな感じでした。その当時、「僕にはここまで、出来ないな」って思っていたので、とりあえず起業とかは考えなくていいかなと思ってたんです。でも、楽天に入ってビジネスやってみたら、人と一緒にやろうと思えば工夫次第でやっていけるのかなということを思ったんですよね。
川井:じゃあ、無意識に、本能にしたがってというか、状況に従っていかれたんですか?
山田:そうですね。偶然というか、マザーズが出来て、それが身近で、僕の知っている人が上場したりとか、上場しなくてもどこかの会社に買収されたりとか、そんなことがいろんなところで起きていて。いつの間にか身近な話になっていたということが結構大きかったですね。
川井:なるほど、わかりました。



会社社名 ウノウ株式会社(英文表記:Unoh Inc.)
http://www.unoh.net/
代表取締役 山田進太郎 石川篤
資本金 1億6600万円
所在地

〒150-0002
東京都渋谷区渋谷3-13-11 渋谷TKビル8階



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