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第35回 手嶋 守 氏 | 株式会社 手嶋屋 代表取締役
川井:大学在学中はどのような研究をやっていたのですか?
手嶋:マンマシンインターフェイスやロボットを動かす研究室に所属しており、それらの接点となるプログラムを書いていました。あとは簡単な言語解析もやっていましたね。
川井:人口知能の領域に近い分野を集中的にやられていたんですね。
手嶋:はい。比較的やりたい研究は出来ていましたね。けれども大学の研究室という小さな実験場で「これが知能だ」 とか「けれどもこれは知的だ」と、やっているのはいいのですが、広がりがないんですね。それよりも、現実の世界の何万人もの人がコミュニケーションができる環境で何か試した方が、より知的なものが出来るのではないかと思っていました。
川井:なるほど、そういう時代だったんですね。アルバイトを始めたりしたのですか?
手嶋:そうですね。大学2年か3年生の時に、人工知能をやる上でコミュニケーションツールを知っておかないといけないと思っていて、人と機械が接する場面にいる事が重要だろうと考えて携帯ブラウザのトップシェアだったACCESSに、アルバイトで入れていただきました。そこで、会社の中におけるプログラマの役割や働き方は、ある程度見られたかなと思います。
川井:いわゆる職業プログラマのイメージを掴んだ感じですか?
手嶋:そうですね(笑) ACCESSはとても優れた会社で、携帯ブラウザのシェアは今でも世界一じゃないですかね。携帯電話って見た目は一緒なのですが、中のシステムは機種やバージョンによってばらばらなんですよ。例えばdocomoでモデルチェンジして、904から905に数字が一個上がるだけで、プレイステーションからWiiに変わったぐらい、アーキテクチャーの変化があるんです。また、「カメラを付けると、このチップじゃ足りないから、このグラフィックチップに変えなきゃいけない」というように、せっかくすり合わせたのに次々とハードが変わってしまうという苦労があったと思います。それをプログラムの技術でなんとか追い付かせて、ユーザーに同じ物を見せていくという大変な努力があるわけで、エンジニアから見ると相当泥臭い世界だったんです。
川井:じゃあキャリアが違うとすごく違う以上に、モデルが変わるだけでも全然違うって感じなんですね?
手嶋:全然違いますね。あれはビックリしましたよ。
川井:それって不具合があるから変わっていくのか、それとも技術革新が速いのかどっちですか?
手嶋:携帯自体が小さい物なのでチップが変わったりするんですよ。例えばチップがモトローラからARMに変わると、その上に乗っかっているOSも変わるし、僕がACCESSにいた当時は、OSをTron からsymbiam に変えるとか、Linuxが出たとか色々模索していた時期なので、本当に180度変わったりもしましたね。PCの場合は標準規格があって、グラフィックカード、CPU、メモリ、マーザボードとの組み合わせを変えれば問題ないのですが、携帯の場合は、ガチっとはめ込んで溶接するので、パーツの代替がきかないんです。なので、すごくいいチップが出たら、それにあわせて周りを全部対応させるという状態になってしまうんです。
川井:ひとつ革新的なものが出ると全部変わるということですよね。進歩の早かった時代ですが、ACCESS自体はどうだったのですか?
手嶋:ちょうど上場する直前のタイミングだったので、会社も上向きで人がドンドン増えていきましたね。だから、引き出しを開けたら、プレゼントで株券が1枚ぐらい入ってないかと思って見たりしたんですけど、残念ながら、何も入っていなかったですね(笑)
川井:(笑)
手嶋:交通費精算の紙などは入っていたんですけどね(笑) 本当にACCESSにはよくして頂いて、現場のテストプログラムなどを書くだけではなくて、カンファレンスに出展するためのデモンストレーションといったちょっと派手な仕事もやらせて頂き、結構楽しくやっていました。
川井:なるほど。どれくらいの期間やられていたのですか?
手嶋:週3、4回でしたが、2年間くらいじゃないですかね。
川井:結構やっていたんですね。
手嶋:その時、大学の単位を大幅に落としたんですよ(笑) 確か大学3年生のテストが21個あったんですが、3勝18敗でしたね。
川井:あまり大学には行っていなかったんですか?
手嶋:一応行っていましたよ。でも自分のしたい研究やバイトの仕事を授業中やっていましたね(笑)
川井:他に大学時代に取り組んだことはあるんですか?
手嶋:3年生の後半ぐらいに、起業したいという仲間2人に誘われて、仕事をもらいに、彼らと一緒にベンチャー企業を回らせてもらいました。
川井:当時は、どんなベンチャー企業を回られていたんですか?
手嶋:最初はジョブウェブですね。当時は王子にありまして、そのオフィスがインキュベーションオフィスっぽくなっていて、シェイクさんやビービットさんのようなベンチャー企業が沢山あったんです。そこに出入りしているうちに、その人達の交流会に連れて行ってもらうようになって、そこで他のベンチャー企業さんを紹介してもらっていました。ベンチャー企業だと色々な情報が飛び交うので、「あれやってみない?」とか「これ手伝ってよ」とか色々なお話を頂いて、仕事をさせてもらいましたね。
川井:そうだったんですね。理科大って学生ベンチャーの支援ってやっているんですか?
手嶋:学校としての支援はあまり無かったですね。少なくとも僕の在学中は、ベンチャー企業を立ち上げるような人が余りいなかったんですよ。むしろ研究室からは良く思われていませんでしたね。
川井:学生ベンチャーというとSFC(慶應大学 湘南藤沢キャンパス)か早稲田大学も支援し始めているみたいですね。
手嶋:でも僕らは適当にやらせてもらっていましたからね(笑)一番良かったのは大学があまり大変ではなかったって事ですかね。理科大って平均的に厳しくて、平均在学年数5年とか、20%ぐらいは留年当たり前とか言われていたんですが、経営工学科は、割とその中では緩い方で余裕がありましたね。
川井:在学時にベンチャーを回られて、手嶋屋自体は卒業してから立ち上げたんですか?
手嶋:そうですね。大学在学中は最初その3人でやっていたんです。僕を誘ってくれた1人がCEOで、僕がCTOでした。このまま3人でやろうという話で進んでいたんですが、途中CEOが「上海に行く」と言い始めて、突然、いなくなっちゃったんです(笑)
川井:そんなことがあったんですね(笑)
手嶋:でも、お客さんから仕事を頂いているし、仕様書も見積書も出して、きちんとプログラミングもして納品して、とやっているうちに、だんだん僕が仕事を仕切る様になっていきました。実家が家業をやっていたので、仕事の段取りは知っていましたから、受けた仕事はなんとか回していたんです。今から就活しようにも、すでに就活時期も終わってしまっているし、お金を貯めてそのままベンチャーをやる事にしたんです。その時、ちょうどiアプリの本を書かせてもらったりして90万ぐらいの印税を頂いたり、受託開発をやらせて頂いたりして何とかお金を貯めて、翌年、卒業と同時に会社を創ったんです。
川井:受託開発っていうのは、ホームページというよりかはWebシステムという感じですか?
手嶋:システム寄りでしたね。携帯のアプリがまだあまりなかったので、アプリを作るのがメインでした。当時のJavaのエンジニアってエンタープライズ級の高級取りは多くいましたけど、携帯アプリみたいな細かいものを安い値段で作れる人はいなかったので、うちみたいなベンチャーは重宝されていたんです。
川井:確か、iアプリなんかのJavaは若干起動が遅いとか言われて時代でしたよね。
手嶋:そうですね。会社からの要望として、「10kbに収めなさい」「オブジェクト指向は使ってはいけません」、Javaなのに「Classは1個で作りなさい」などと言われましたが、僕らはそういうものが得意だったんです。逆にエンタープライズ寄りの人は、設計重視で入ってしまうので、オブジェクト指向でパンパンになっちゃうんですよね。
川井:ベンチャーをやるにあたり、やりたい方向性というか理念とかはありましたか?
手嶋:そうですね。やはり人工知能への思いは強くて、ビジネスをやっている今でも、人間性を追究したいとか人工知能の研究がしたいという気持ちはありますね。「人間性にアプローチするのには何が必要なのか」、と考えときに、僕らは技術やプログラムが得意だったので、コミニュケーションツールに徹底的に携わろうという事でやってきたんです。人同士のコミュニケーションの間に入って、その中での会話ややり取りに触れる事ができれば、「より人間性に近づけるだろう」とか、「そこに人工知能を投入して、人の代わりにコミュニケーションをしたりできるだろう」ということを考えたんです。最初にやったのは携帯のブラウザやアプリ、メールとかで、PCでいうとメッセンジャーなどですね。メッセンジャーも自分達で作ったりしていました。コミニュケーションツールに試行錯誤しながら取り組んで、なんとか収入を得ていた感じですね。
川井:コミュニケーションツールにそれほどの思い入れがあったんですね。
手嶋:それは間違いないですね。やはりコミュニケーションに関することにずっと携わっていきたいと思っていました。だから1人で使うアプリには興味がなかったんです。そういう仕事で高収入の案件も結構あるんですけど、それよりも結構面倒くさいけど、皆でワイワイやるようなツールを作る方が、楽しかったんだと思います。
川井:なるほど。ちなみに、会社のお名前が結構ユニークですけど、これって当初から考えていたんですか?
手嶋:そうですね。当時は「eなんとか」や「サイバーなんとか」といった会社名が多かったんですけど、僕らはナショナルなものでないと、インターナショナルでは通用しないと思っていたんです。海外でクラッシックを弾くよりサムライ映画とか日本の文化を海外にもっていった方が、意外と振り返ってもらえますよね。そこで、いずれ会社がインターナショナルになっていくのだったら会社名も和名にしようと思ったんです。それに海外では、人の名前を使った会社名が多いじゃないですか。ちょうど響きもよかったので、「手嶋屋」としたんです。
川井:なるほど。そういう経緯があったんですね。
手嶋:グローバル志向ではありますが、逆に日本的な部分は大事にした方がいいかなと思いましたね。
川井:あの手嶋屋入口にかかっている緑の暖簾もいいですね。
手嶋:ありがとうございます。和名なのでブランディングしやすいんです。名刺にしても暖簾と同じ和風のデザインですしね。
川井:最初は、受託開発をメインでやられていたと思いますが、いつかは自社プロダクトをやりたいという気持ちはあったんですよね?
手嶋:受託を続けるつもりはありませんでした。そもそもコミュニケーションの土壌を見出して人工知能の研究をしようと思っていたわけですから、受託会社で終わる気はなくて、自社開発に取り掛かりたいと考えていました。というのも、当時、携帯メールやメッセンジャーを作っていても、中々しっくりこなかったんです。これをやっていてもあまり商売にならないだろうと思ったその矢先、2004年頃、SNSが出てきたんです。これはスゴイと思いましたね。 顔写真やプロフィール、足跡も付けられるし、フレンドリンクもできるし趣味もわかっちゃう。今までのツールに比べて“人っぽい”。これは人工知能に近しいと思い、人工知能を試す場としては面白いのではないかと考えて、会社全体で取り組むようになりましたね。
川井:まず受託ありきでSNSを作ったわけではないんですね。
手嶋:そうですね。どちらかと言うと、自社の実験サービスですね。もともと学生時代に少しずつ実験サービスはやっていて、そのうちの1つがOpenPNEなんですよ。当時、サブアドレスサイトを長い間やっていて、ユーザーが数万人になったので、コミュニケーションをしてもらいたいと思い、レンタル掲示板を設置したんです。そうしたらドーンと荒れたんです。レンタル掲示板だから監視もできないし、「コリャどうにもならん」と思っていたら、SNSブームが到来して、そっちを見てみると、全然荒れていないんですよ。「信頼の繋がり」「招待制で安心」「女の子が実名を出しても安心」といううたい文句に、一体どうなっているんだって思いましたね。そういう要素をうちの掲示板に1つ1つ入れてSNS式掲示板を作ってみたら、驚くことに荒れなくなったんです。前は100人200人で荒れていたのに5000人来ても荒れないんです。そうしたら案の定mixiとかGREEなどが急速に伸びていってあっという間に100万人までいってしまいましたよね。
川井:なるほど。荒れなくなった一番のポイントは招待制なんですね。
手嶋:そうですね。人間関係をネットに持ち込んだのが大きな要因ですかね。人間の特徴がポジティブにもネガティブにも働くんです。ポジティブに働く面は、友達が見ているから発言に注意をしようとブレーキがかかり、荒らしが減るところです。しかし、反対にネガティブに働く面は、友達が見てるから恥ずかしくて書きたいことが書けなくなるという点なんです。mixiとGREEなんかは、このネガティブな面の作用で発言がチョット沈んでいったことがあるんですよ。ユーザ-が100万人規模になると、ユーザーはいくつかのコミュニティに同時に参加することになるので、大学の友達の間で楽しく馬鹿騒ぎをしていたのにそれを地元の友達や小学校の友達に見つかって、「昔は真面目な子だったのに」というように書かれてしまうと、馬鹿騒ぎをしているのが恥ずかしくなっちゃうんですよね。そこで僕は、地元だけのSNSがあるべきだなと思ったんです。地元に戻ったらアダ名も変わるし、上下関係も変わりますよね。僕も社長ですけど、多分、地元の仲間に会ったら、上下関係も無くなるし、そういう意味では組織ごとにコミュニケーション空間が必要なんじゃないかと考えました。mixi、GREE、モバゲーとか大手企業が大きいSNSをやっているのなら、うちは小さいSNSをやろうと。
川井:なるほど、そういう所で差別化をしていたわけですね。機能的にも何か変えたりしたんですか?
手嶋:実は機能は日本の一般的なSNSと比べてそんなに変えていないんですよ。大きなSNSのユーザーは、さきほどのように大きなSNSならではの悩みを抱えてログインしなくなってしまうんですよ。なので、移動した時に余り違和感があってはいけないから、同じような使い勝手であればいいと考えています。むしろ機能で考慮した点というのは、多くの人と繋がる機能よりも余り繋がらなくても済むようにするとか、管理者がちゃんと悪い人を排除し、特定の人だけでコミュニケーションができるようにするといった点で、ユーザーが使える機能は余り変えていないです。
川井:Open PNEのベースはPHPですか?
手嶋:はい。PHPで書いています。ソースコード量でいうと、現在は6万行ぐらいになっているんじゃないですかね。
川井:結構、日々進化していますよね。
手嶋:そうですね。大きなリリースは半年に一度ぐらいのタイミングなんですけど、もちろん、毎日ソースコードを少しずつ修正しています。
川井:何名ぐらいのチームで開発されているんですか?
手嶋:Open PNEの本体自体の開発は、他の仕事を持ちながら関わっている人も含めて6名から8名ぐらいですかね。



会社案内 株式会社手嶋屋
http://www.tejimaya.com/
代表取締役 手嶋 守
所在地 〒174-0041 東京都板橋区舟渡2-11-23
役員 代表取締役:手嶋 守
取締役:大平 哲郎
資本金 1600万円
従業員 14名 (2008年10月1日現在)


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