川井: | 大学はそういう方面にいかれたんですか?
|
|
荻野: | 大学は東京都立大学の理学部数学科なんですよ。なので直接は関係ない学部でしたね。
|
川井: | 数学科なんですか。数学を選ばれたのってどういう理由なんですか?
|
|
荻野: | もう単純に研究者になりたかったんですよ。
|
川井: | 数学者ということですか?
|
|
荻野: | はい。当時は研究者になりたいとか、他にも絵描きになりたいとか変なことを考えていたんですけど、美大とかは早々に諦めたんです。数学者になりたいって思ったのは、SEGっていう予備校の先生だった小島寛之さんっていう最近だと「数学でつまづくのはなぜか」っていう本が話題になってるたくさん本を出されてる方なんですが、その方の「数学迷宮」っていう著書を「大学への数学」という雑誌の記事を見て知って、それを読んで感銘を受けたのがきっかけでした。今は絶版ですけど、これはカントールの集合論のよい入門書なんです。
|
川井: | 「大学への数学」、懐かしいですね。学コンとか応募してました?
|
|
荻野: | やってましたね。何回か載りましたよ。添削してくれた人に大学で会ったりもしました。
|
川井: | それはすごいですね! 私は一度も載りませんでした・・・。実は私も数学者を目指していた時期があったんですよ。
|
|
荻野: | そうなんですか。じゃあ、数学科なんですか?
|
川井: | いえ、それが現役のときは数学科を受けていたんですが、浪人して結局、国文学科に行っているんですよ。
|
|
荻野: | その転向はいいんじゃないですか。この業界って文転を狙っていたのにできなかった人がいっぱいいるはずですからね。
|
川井: | いえいえ。私のは本当に落ちこぼれ文転ですから(笑)
|
|
荻野: | それでいろいろな科学が好きだったんですけど、数学というのはなんと美しいものなんだと思っていて、絵描きに憧れたこともあったと言いましたが、数学をやっているだけでも十分に芸術的だなと思いましたね。
|
川井: | それは確かにそうかもしれません。でも残念なのは、数学を楽しく教えられる先生って少ないですよね。これが解消されると日本のエンジニアとかプログラマってもっと増えるんじゃないかと思っているんですよ。何が面白さとつまらなさの差になるんでしょうね。
|
|
荻野: | それは本当に感じますね。もったいないなあと思いますね。僕なんかは本当にラッキーだったと思います。僕は高校3年生の夏に東京の先輩のところにきて、SEGに通っていたんですよ。SEGというのはScientific Educational Groupの略なんですけど、「大学への数学」を読んでいるような高校生には有名で、理科系のエリート予備校みたいな感じだったんです。そこで小島先生やいろいろな先生に出会ったんです。代表の古川昭夫先生にも別の数学コンテストがきっかけでお会いしたんですけど、古川先生が都立大の数学教室出身だったんです。
|
川井: | なるほど、そういう出会いだったんですね。
|
|
荻野: | それで、都立大の数学科が名門というかある程度名が通っているところだっていうのは知っていて、もう1つ、地元の高校生の中で数学に特別に興味を示している人を集めて、半分個人的に数学を教えていた上越教育大学の先生がいて、今は神奈川大学にいらっしゃるんですけど、この方も都立大学の出身だったんです。やっぱり東京に出てきたかったんで、確実に入れそうっていうのと国公立じゃないと学費が出せないっていうのもあったんで、都立大を選びました。
|
川井: | そうでしたか。
|
|
荻野: | 小島さんは、当時は数学者の卵だったと思うんですけど、本人は挫折したと書いてましたが、今は数学からは遠のかれて、帝京大学の経済学の先生をされていますが、この本で数学に出会わせてくれたことには今でも感謝しているんです。
|
川井: | じゃあ、大学の時は数学の研究をされていたんですか?
|
|
荻野: | やっぱりすぐに研究はできないので基礎知識をつけるために1年くらいはすごく勉強しました(笑)
|
川井: | 1年くらいですか(笑)
|
|
荻野: | 何が起こったかっていうと、やっぱりパソコン通信の魅力っていうのが大きくて、田舎にいたときには掛けられなかった関東のホスト局に掛け放題なんですよね。テレホーダイも始まるし。。。あと18歳になったのも大きくて、親の許可がなくても銀行引き落としの手続きが可能になって、有料のネットと繋ぐことができるようになったんです。そこでASCIInetっていうところに入って、そこのjunk.testに集う人々といろいろ会話をするようになって、ASCIInetの中で谷山浩子ファン集っていたtaniyama.nemuko.bbsっていうのに入り浸るようになりました。
|
川井: | やっぱり谷山浩子さんが重要なキーなんですね。
|
|
荻野: | そうなんです。それが伝えられれば、このインタビューの僕の目的は達せられます(笑)
|
川井: | なるほど。今でもかなり好きなんですね。
|
|
荻野: | はい。高橋征義さんと初めて会ったのも谷山浩子さんがきっかけなんです。
|
川井: | 確かに高橋征義さんも好きだって言ってましたね。
|
|
荻野: | で、そのASCIInetのオフ会で、Niftyにいくと今でいう掲示板みたいなホームパーティっていうのがあって、そこには谷山浩子さん本人がいるんだよって聞いたんです。谷山浩子さんの「パジャマの樹」っていう楽曲があって、それにちなんで「パジャマの森」って言うんですけど、そこにたどり着いて、ASCIIの「NetWorker」がきっかけで、パソコン通信を始めたら、今はひっくり返ってコンピュータそのものに熱中していますって自己紹介を書いたんです。当時は新入会の自己紹介全部に谷山さんご本人が返事を書いていたんですけど、僕のにも「何年も前のことなんでもう何を書いたか覚えていませんが、一人の少年の人生を方向づけたと思うと感無量ですね」っていうようなことを書いてくださったんです。
|
川井: | 感動ですね。
|
|
荻野: | それも「方向づけた」の部分は、「捻じ曲げた」を^Hで消して書いてあったという(笑)
|
川井: | (笑)
|
|
荻野: | いきなりご本人から返事をもらったのでかなり舞い上がって、これはなんと素晴らしい場所なんだろうと思って、そこにずっと入り浸っていました。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | そのホームパーティで自己紹介の返事以外に谷山さん本人が出てくるには、いろいろとコツがあるんですけど、何回か本人から直接レスをもらうような体験もしました。
|
川井: | 発言の内容を工夫するんですか?
|
|
荻野: | そうですね、なんかひっかかるようなことを書くとか(笑)熱中しましたね。
|
川井: | これは他のことはできませんね(笑)
|
|
荻野: | そうですね。あと同じ時期くらいだと思うんですが、ポケコンのプログラムにもはまっていたんです。当時のポケコンのプログラムの頂点に位置していたのが、HP95LXとかHP100LXとかヒューレットパッカードの小さいコンピュータ達なんですけど、そのポケコンのマニュアルが当然英語なんですけど、規格品みたいなものでHP本社から取り寄せなくちゃいけなくて高いんですよ。当時、横河ヒューレットパッカードさんがやっていて、それがないと書けないプログラムとかがあったんですね。欲しいんだけど高くて買えないと思っていたときに、その翻訳のプロジェクトをやっている会社が都立大の近くの唐木田っていう駅にあったんですよ。
|
川井: | 唐木田にですか。
|
|
荻野: | それをたまたま学内の友人がアルバイトの面接にいって、なんかこういうことをやっているみたいだよって聞いてきて、それでその会社にすぐさま連絡を取ったんです。
|
川井: | すごい行動早いですね。
|
|
荻野: | それで面接に行って、即採用されました。HPのマニュアルを翻訳出版していたような会社なんですけど、そこで翻訳とDTPのアルバイトを始めたんです。
|
川井: | デザインもできたんですか?
|
|
荻野: | 見よう見真似でQuarkだとかIllustlatorとかを扱うことはできたんですよ。ただ、自分ではMacintoshは持っていなかったんですよ。X68000ユーザーはMacを買うっていうのは最大の犯罪ですからね(笑)
|
川井: | そりゃあ、まずいですね(笑)
|
|
荻野: | 寝返ったとか言われるような許されざる行為なんですよ。
|
川井: | そうですよね。
|
|
荻野: | これは仕事なんだと割り切って、Macの操作をしていましたね。Macを使って本格的にアルバイトを始めたら、そっちに熱中してしまいまして、授業に全然行かなくなりました。
|
川井: | そうなりますよね。それはよく分かります。
|
|
荻野: | 東京に来ると悪い友達が増えるって言いますけど、その通りで、ASCIInetのtaniyama.nemuko.bbsのオフ会とかNiftyの谷山浩子ホームパーティのオフ会とかに出入りするうちに、コンサートとかは全部行くのが当然でしょっていう空気に毒されてしまって、それまではたまに行けただけで楽しかったんですけど、いわゆる追っかけっていうのが始まってしまったんです。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | 全国を旅しなくちゃいけないし、チケット代もいるし、行った先で飲み食いするしで、とにかくお金がいるんですよ。昼間はDTPをやって、夜はガソリンスタンドでバイトして、それで午前中に学校にいくと寝ているみたいなそんな生活をずっと続けました。
|
川井: | 結構、やられてますね。
|
|
荻野: | 初めてコンサートに行ったのは高校3年生の夏休みなんですけど、横浜SF大会に谷山さんが出るって聞いて、夏期講習にかこつけて東京に出て、ついでに行ったのが初めてのコンサート体験で、その後2年くらいは細々とたまにコンサートに行ってたんですが、そういったぽつぽつ行っているだけじゃ満足できなくなって地方にも出かけるようになって、福岡のコンサートに行ったときにアンケートにそのことを書いたら、パジャマの森のBBSで谷山さん本人から「おぎのさん、初めての遠征お疲れ様です」っていうメッセージがあって、それで弾みがついちゃったんです(笑)
|
川井: | (大笑)
|
|
荻野: | それで、嬉しいなあって思って、94年にはネパールのコンサートまで行きました。それが私の初の海外旅行で初の飛行機でした。
|
川井: | すごいエネルギーですね。
|
|
荻野: | 本当に楽しかったですね。何もかも夢中になっていた感じでしたね。
|
川井: | その後はどんな学生生活というかバイト生活を送ったんですか?
|
|
荻野: | その会社の特性で、計測器だとかコンピュータのソフトだとかのマニュアル出版なんで、デザインとかレイアウトに凝るよりも、たくさんのページを早く組み版しなきゃいけないっていう要求が強くなってきたんです。そこでAdobeのFrameMaker とかのソフトを使っていたんですけど、ある日、TeXのマクロを上手く使いこなすと早く組み版ができるっていろいろな人に教えてもらって実験的に組んでみたんですよ。そういうところでDTPを効率化するためにMS WordやFrameMakerのマクロを書き、TeXのプログラミングをやっていくうちに、やっぱりプログラミングは楽しいなあと思うようになっていったんです。きっかけはDTPのアルバイトだったんです。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | その時の会社の人に知られたら怒られるかもしれないんですけど、2日くらいかかるという見積もりのものを、マクロで15分くらいで処理して、ミスがないかチェックだけして、あとは自分の好きなことをする時間に使っていたんです。
|
川井: | やりますね。
|
|
荻野: | でも、それが徐々にばれてきたりもして、結局給料を上げてもらったりしましたね。なので、DTPのアルバイトから本格的にScriptを書くことをお金にするってことに目覚めたんです。
|
川井: | この頃は仕事は、この線でいこうというのはあったんですか?
|
|
荻野: | 全然なかったですね。その頃は勉強してなかったんですが、いつか研究者になるんだと思っていました。その割には追っかけばっかりだったんですけどね(笑)
|
川井: | いつぐらいに研究者はやばいかなって思ったんですか?
|
|
荻野: | 第一の関門は院試でしたね。大学院の入試に受からないとそれどころじゃないんですけど、それ以前に4年生の研究室の配属の時点でどの研究室に行ったらいいか分からなくてどこにも行き場所がないみたいな感じになってしまっていたんです。
|
川井: | そうなんですか。
|
|
荻野: | それで、少し話はさかのぼるんですけど、大学1年の時に、JUNETを使うと、電話代がかからずにASCIIにつなげるよってある人に教えられて、計算機センターの先生にJUNETを使わせてくださいって直訴しに行ったんです。当時はまだ専門にいかないとアドレスは配らないよって感じだったんですが、1年生が来たからか珍しがられて、数学科の中ではコンピュータで知られた研究室を紹介してもらったんですよ。その研究室の先生に1年の時から結構お世話になりましたね。今はもうJUNETじゃなくて、JP.Internetになったんだよっていうちょうどそういう時期だったんですよ。モザイク登場前夜くらいかな。それでモザイクが現れて、ネットスケープが現れてという時期。それで結局4年生のときもその先生のところにお世話になることになって、計算機数学のような分野をやることになったんです。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | それでひいこら言いながら半年間、バイトを控えめにして試練だなと言いながら院試の勉強をして、駄目だろうなと思っていたんですけど、一夜漬けが功を奏して、受かってしまって大学院でも勉強ができるということになったんです。なんですが、4年生だった96年の11月くらいに数学科にいた若い先生の知りあいが会社を作っていて、コンピュータが好きな学生のアルバイトを探しているんだけどって紹介されて、行ってみたんです。何をやるか分からないままに面接に行って、その助手の先生の紹介だから信頼するって言われて、何ができるか聞かれないままに採用されたんです。
|
川井: | 前のアルバイトはもう辞めていたんですか?
|
|
荻野: | まだやっていたんですけど、Scriptを書きながら、もっと本格的なプログラミングをやってみたいなと半年くらい思っていた時期で、大学院の試験のために休んでいたのもあって、そのまま止めてここに移ったんです。
|
川井: | なるほど。
|
|
荻野: | 配属されたのはCADをやっている部署で、ほとんど本格的なプログラミングはやったことがなかったんですけど、上司の方もX68000ユーザー同士だったということで、初日から結構、意気投合して、すごく丁寧に教えてもらって、C++でCADのモジュールの一部分を担当して作っているうちに、そこの会社のアルバイトに本当にはまってしまったんです。
|
川井: | 本当にかなりはまりやすいですね(笑)
|
|
荻野: | そうなんです(笑)ついこの間まで、あれだけ苦労して院試に通って、これからは研究に専念するぞって思っていたのに、修士に入る直前から行きはじめて、今度はその会社のアルバイトが生活の中心になったという感じですね。それが96年から97年にかけての出来事で、結局、M2の途中からですかね、その会社の方に、大学院に在籍したままでもいいから社員扱いにしてあげるよって言われたんです。社員になれば、表にも出せるし、いろいろ任せられるし、社会保険もつくからってことだったので、二つ返事で是非っていうことで、それが最初の就職になりましたね。
|
川井: | 内部リクルートですね。
|
|
荻野: | アルバイトから社員登用するって、今考えてみるととても効率的な話なんですけど、当時の私からみると、そんなことをしていただけるのはなんて光栄なんでしょうみたいな話だったんですよ。
|
川井: | そうですよね。就職活動しなくていいんだみたいな感じですよね。
|
|
荻野: | 僕はドクターに行くって公言していたんですけど、こいつは学校を辞めるだろうって読みがあったみたいで、それでもいいからって言われたんです。
|
川井: | 何年くらいこちらにいたんですか?
|
|
荻野: | 2年くらいですかね。そのあとフリーランスというか単なるぷー太郎みたいなのを挟んだりして、そのときもお仕事をもらっていました。C++はそこで本格的に習得しましたし、いわゆる受託開発の仕方の要件定義とか仕様設計して実装してというのもそこで教えてもらいましたので、結構、勉強させてもらいました。
|
川井: | なるほど。何歳くらいまでの話になるんですかね。
|
|
荻野: | 24,5歳くらいまで関わっていたんじゃないですかね。
|
川井: | なるほど。
|